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人間というのは不思議なもので、「適わない」と思ってしまったら最後、 どんな物にも手出しをすることなくひたと手を止める。 例外的なのはそれでも抗い続けて自分の志というものを貫いていくそういった強い人間位で、 他の弱者は蹂躙され支配された。 幼い頃から忍として生きることを強制された佐助にとって、 その教訓は忘れてはならず、また、考えすぎてもいけないものである。 だから目前に広がる戦明けの焼野原をその目でしかと見届けても、佐助は冷静を保っていた。 死体の焼ける悪臭と煙臭さが鼻に沁みる。 何より、武田軍の特徴である赤い鎧をつけた死骸が予想通り少ないことにそっと胸を撫で下ろした。 佐助に忍として任せられた任務はここまで。 あとはたった一つ、佐助が仕えるまだ年若い主の護衛と子守り、 つまりは佐助自身に任せられた重要な役目だけだった。 足元にごろりと転がる死体の数々を踏み分け、 一刻も早く主が待つ屋敷へと足を向けて軽やかに地を蹴った。 ところが、弁丸は館の中庭に居らず、 それより少し距離を置いた草の道辺りでしゃがみこんでいて、佐助を見て微笑む。 素直には名前で己が主を絶対に呼ばない佐助だったが、 この時に初めて「弁丸様」と短く幼い主を咎め、まだ少年の域を脱しない弁丸に近寄った。 「さすけ、」 「…旦那!どうしてこんな所にいんの、午後の鍛錬は?」 「抜け出した」 自由気侭に領内をあちらへこちらへ馬へ乗って移動する弁丸のこの放浪癖を、 佐助は、ああまた、と嘆く。 真面目で何事にもはっきりと決意を新たにする姿を見て安心できないのだ、 でないとこの主はまた屋敷を抜け出してしまう。 まだ弁丸が幼年の頃より見回りの世話役として仕えてきた佐助には、 そういった時期が自ずと掴めていたし、危険だからあまり外にでちゃ駄目ですよ、 と忠告したから抜け出しはしないだろう、と思っていたのだ。 きっと道端で見つけたのを摘んだのだろう、 幼い手に握られている赤い彼岸花をそっと手にとって佐助は弁丸を睨む。 「勝手に出ちゃ駄目ですよ、まだ戦も収まって間もないないんだから…。 ……ん?旦那、どうかしたの?」 「さすけは怪我をしたのか」 「え、あ……しまった」 はっとして自身の衣服を見下ろして、佐助は参ったとばかりに頭を掻いて、 それから弁丸に向かってごめんね、と謝ってみる。 初陣もまだだった、この幼いけれども聡明で優しい子供は、 きっと自分が戦場に赴いて幾多もの死人を見たのを悟ったのだとも思って。 真田家の第二子である弁丸も、戦忍の仕事だって知っている。 けれど佐助はあまり弁丸に黒い染みを見せたくなかった。 武人は返り血や残虐な死体や殺し方を恐れてはいけないし、 その方法を扱い、殺し、生き延びなければならない。 だからといって他人のことをむざむざ踏み潰してまで戦って欲しくはない、 と佐助は弁丸にそっと期待を寄せて、傍らで見守っていた。 己の失態に頭を掻きつつ佐助は舌打ちをする。 戦忍の仕事が終わって気が緩みすぎていたことが要因だと分かる。 「服着替えたら団子でも出してあげるから。もう少し鍛錬してなさいって」 「分かった!」 彼岸花をくるくると手で弄くりながら、弁丸を屋敷へと諌め、 佐助はくん、と彼岸花の香りを嗅ごうとした。 摘んでから大分時間も経っていた所為か、彼岸花からは微塵も香りは出ておらず、 ただ空しい紅さに佐助は嘲笑を浮かべる。 もうじき元服を迎え、きっと弁丸は戦場に立って地獄の合間を縫っては駆け、 そして誰よりも強くなろうとするだろう。 その時が何時如何なる場合であっても、 誰よりも近い場所で佐助はこの主を支えてやりたい、と口には出さずに望んでいる。 佐助は忠誠心を表す態度をあまり弁丸に見せたことはない。 けれど、弁丸は誰より己を心配している佐助の忠誠を嬉しい、と言っていた。 だが、いつかは佐助とて人間の情をまったく消し去る必要も出てくる筈で、 それを弁丸は知らない。 いつまでも弁丸がただの子供ではいられないように、 いつまでも佐助は幼い主に残虐な光景を隠し通せないのだ。 例えばこの匂わない彼岸花のように、 幸村の心もいつかは殺戮の前に凍てついてしまうだろう。 二度と本当の心底から浮かべる涙も笑顔も見せることのない、 本当の意味での大人になってしまうだろう。 「嫌だねぇ、戦っていうのは」 佐助はそう言って空中へ真っ直ぐ紅い花を飛ばし、 音も立てずにその場から立ち去った。 今頃団子をまだかまだかと待っている弁丸に 暖かい茶と団子を入れなければ、と口元に苦笑いを浮かべつつ。 (俺も随分と旦那に甘くなったもんだねぇ)