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さらさら、と風の為すがままに揺れ、 黄金色の波が小道のすぐ傍でさざめいている。 季節が秋ならば、小十郎にとって最も大切で貴重な時間と色合い、 そして何より旬の物がどっと増える時期だった。 小十郎が住む屋敷から望める夜の小道の向こうでは、 青光りを周囲へと放っている十五夜の月が顔を覗かせている。 妻や子供達はもう寝静まり、 一通り書類に目を配った後に、こうして月見酒と洒落込んで小十郎は一人、杯を傾けていた。 「もう秋か……。そろそろ冬が来る」 白い芒に満々と降り注いでいる月光を見て、 小十郎は手元の酒瓶から申し訳程度の酒を杯に注ぐ。 あまり酔い過ぎてしまうと妻に怒られてしまうし、 何よりそんな無様な格好になるのは小十郎自身あまり望んでいない。 食欲だとか運動たとか学術だとか、秋はとても忙しくてけれど 人々が最も伸び伸びと季節の移ろいを感じられる時期なのだ。 それにしても、と頭上高く、人っ子一人の手では届かない場所で輝く 黄銀色の月を仰ぎながらそっとため息をつく。 十年間程だったか、政宗に仕えてからというもの、 小十郎はあまり自分のことに対して休養を与える間もなく働いていた。 あっ、と言う間もなく、もうとっくに十年が過ぎ去り妻子も出来、 きっと今が一番自分の人生で幸せな頃なのだろうか、とも思う。 「お、月見酒か。ま、今が一番過ごし易いからなあ」 月光に照らされる小道の上に、ぽつねん、 と真田幸村直属の忍である佐助が突然姿を現し、小十郎に向かってどうも、と頭を下げた。 比較的に見ればまだ平穏な方である今日でも、 佐助が使える真田家は常に各国の情勢を知らなければならなかった。 なんと言っても、幸村の父であった人物は真田の血を絶やすまい、 と努力をしてきたし、幸村の兄とて同じだったからである。 幸村と政宗の間には何か特別な感情があったと聞いた時も、 幸村の兄―信之は笑って佐助に幸村のことを頼む、と言った。 だから本来は最も忙しい筈の佐助は、 今は幸村の周辺の世話をする為に少しだけ休養を貰っていたらしい。 「来てたのか。ま、座ってくれ」 「じゃ遠慮なく」 悪いね、いやいやこちらこそうちの殿が…、 うーん俺ん所の旦那も色々あるし、そりゃ大変だな、まあ大変だけど楽しいよ…… 二人はこうして偶に会う度、近況を話したりして酒を飲むことが多い。 二人ともあまり酔わず、その方が気さくだからだ。 少し肌寒い空気の中、長い間二人は世間話をしたり、 近頃人気の茶菓子や銘酒、おまけに旬の食べ物の話題にまで話していた。 「もう秋だな。…もうすぐ奥州には冬がくる」 「大雪だからその間は旦那が来れないし、そっちも雪掻きで大変でしょ」 「いや、毎年毎年やるもんだから慣れちまった。案外雪景色も良いさ」 畑仕事と戦が休止するのも冬ならば、冬はきっと生物に一息つかせる季節だろう、 と小十郎が酒を杯に少し注ぐ。 詠み人のような比喩に、興味があるのかないのか曖昧に頷いて、 佐助は右足を左の腿の上に置いた。 温暖な気候と豊かな土地である上田にも降雪はあったが、あまり苦労するほどではない。 少し苦労はすれど、困るほどではない。 ほう、と冷たくなる鼻頭を誤魔化すように息を吐くと、 彼は冬の足音が着実に近づいている奥州の夜空を眺めていた。 「地面の上はいつもいつも物騒なのに、よくもま、夜空は変わらないもんだよ」 「冬になれば子供は喜ぶぜ、雪が降れば」 「旦那も同じ。まったくいつまでたっても子供なんだからさ」 忍者だろうが武士だろうが、やはり主の為に働く気苦労は両方同じなもんだ、 と佐助はすっくと立ち上がり、背筋を伸ばす。 草屋敷を通って上田まで行こうとすればきっと昼前には着くだろう。 足の走力と素早さにおいて忍は他の物の追随を許さなかった。 ふと見上げればもう満月は夜空の頂上にあり、 あっという間に深夜になったことが小十郎にも分かる。 「そろそろ行かねえと旦那が心配するんで、俺はこれで失礼」 「引き止めて悪かった。もし暇があれば何か茶菓子でも虎の若子に送っておく」 「あ、それは助かる、旦那はいつも団子団子ってうるさいから」 苦笑いながら佐助は一礼して、来た時と同じように音もなく暗闇にすっと消えて、 再び小十郎は一人になった。 気づけば、遠くに行ってしまった満月を溜め息混じりに一瞥し、 ゆっくりと立ち上がり、自室の襖を開け中に入る。 数分後にはその部屋の明かりも消えて辺りは月光だけが眩しい光源となった。 ※豆知識 草屋敷……真田家の草の者(忍)が使う家などのこと