酷い耳鳴りがしていて、頭の中はぐらぐらと常に不安定としている状態だった。 それでも、俺は奇跡的に生きていて、ちゃんと自分の肺で呼吸し、 しっかりと己の目で景色を見ていた。 ファドリアは、無事に出て行けただろうか。 「剣」は、ちゃんと俺の後継者に渡っただろうか。 魔境の薄暗く湿気に溢れた暗闇の中で、 俺はもう一度呼吸し、今度はしっかりと足を踏み出す。 ぐら、と視界がぶれ、目の前には綺麗な青空が広がり、 足元では穏やかな雲海が、洗い立てのシルクのように輝いていた。 故郷の世界であるイシュロンに、今俺は帰ってきた、ということか。 もちろん俺は全てを失い、俺でなくなったんだろう、 今の俺は所詮は精神の結晶なのだから。 随分遠くで、ファドリアの呼ぶ声が聞こえてくる。 早くこちらへきて欲しいんだ、と。 「今行くから待ってろ、ファドリア」 だが、その前に、俺は魔境とこの世界の狭間で 片付けておかなきゃならないことが沢山ある。 魔境を操る王と成り果てる前に、 俺の知らない場所へ「封印」を移動させなきゃならないし、 記憶も消さなきゃならない。 悲しいのは、お前とファドリアとで過ごした楽しい思い出も 全て消えてしまうことなんだがな。 ああ、分かってるさ、そう五月蝿く言うんじゃない。 これからお前には沢山仕事をしてもらわなきゃならない。 全部任せるぞ、良いなピヨ。 本当に大丈夫だな? 「ピヨ!」 *** 飛空挺の操縦席で仮眠を取っていたヴィルアは、 熱湯をコップに注ぐ音を聞いて、そっと薄く目を開ける。 視界がよく見えるように設定されたシンプルながらも洗練されたガラスの窓から、 土砂降りの外の平野の様子がよく分かった。 ヴィルアのいる操縦席から少し離れた場所にはキッチンがあって、 先ほどの音はカイトが紅茶を入れたものだったらしい。 寝た時のヴィルアの記憶では、確かカイトは後ろの仮眠室にあるベッドで ぐっすりと爆睡していたはずだった。 いつの間にかかけられていた毛布をそっと隣に置き、 ゆっくり背伸びをした後でヴィルアはカイトに声をかけた。 「…もしかして俺が寝過ごした?」 「あ、いや。ヴィルアが爆睡するの、俺は初めて見た」 「ふふ、じゃあ良い思い出になるさ。あんまり普段はこんなに寝ないから。  でも意外だったな、カイトは早起きなんだ」 外気は冬さながらに冷えているからか、 暖かな湯気の立つ紅茶のカップを持っていたカイトは、そっと肩をすくめる。 もう一つのカップに出来立ての紅茶を入れると、 操縦席に座ったヴィルアに手渡してくれた。 歳に似合わず、寝惚けた目を擦ったヴィルアはありがとう、とそれを受け取り、 隣に広げられていた航路の地図を見た。 (そんなに寝過ごしたつもりはないのに、一体どうしてしまったんだろう。 俺が意識を失うほど眠るなんて…。そんなに疲れていたんだろうか) 太線で描かれた航路を指で辿りながら確かめると、 ヴィルアは自動操縦に切り替わっていたハンドルを手動へと変える。 このまま順調に飛空挺を飛ばす事が出来れば、 目的地へはきっと昼頃につくはずだ。 「今の進路はここ。フィウ・エルドンスの雪原を半ば過ぎた辺り」 「フィウ・エルドンス…確か鳥人族の国だったよな」 「記憶力が良くて助かる。そう、鳥人族…  別名「フルゥフリィ族」は元々工業や武器の練成に秀でた種族だ。  だからフィウ・エルドンスの美術品や武器、防具は一流ブランドってわけ」 かたん、と僅かな起動音を発し、飛空挺は土砂降りの雨空の中を、 極めて滑らかに滑空し、ウィデルス王国へと進む。 紅茶を一気に飲み干し、凝り固まった肩を揉み解すと、 ヴィルアはそっと目を伏せてハンドルを握り締めた。 *** 港町ジュディの色鮮やかな獲れたての魚介類をちらりと見つめ、 思わずカイトは腹を空かせた。 ここまで美味しそうな色合いに魚が見えたのは初めてだった。 現実世界(とイシュロンではいうらしい)にいた頃は、 あまり刺身や新鮮な魚を見るのは少し苦手だったのだ。 それが、この世界の魚になると比較的旨そうにみえる。 海の潮臭い匂いもそうだし、魚の色も大変健康的な色でとても良い。 「う…腹減った……刺身食いたい」 「ふふ、お前はまだまだ成長期だな。  俺の驕りで、一つ刺身にしてやろうか?」 「本当にか?なら、あの赤い魚が良い。すっごく旨そうだ」 活気に溢れた市場の出店の一つに並べられた、 鯛そっくりの魚をカイトは元気良く指差した。 その様子にやれ、と首をゆるく振ると、ヴィルアは財布を取り出した。 ヴィルアの衣装である白衣のポケットにはまだまだ、 たくさんの小物やら手帳やらが入っているようだった。 「すみません、この魚一つ、“和界”の刺身にしてください」 「“和界”とはお目が高いな兄ちゃん!そんじゃ、ちと待っててくれ。  味は保障するぜ、何せ今日は海がすんごく良い潮だったからなぁ」 鼻歌を歌いながら、魚屋の店長はすとんすとんと包丁で魚をさばき始めた。 眺めている間にも魚は皮が取られ、骨がとられ、頭が取られていく。 カイトが感心して溜め息をついた頃には旨そうな刺身の切れ身になっていた。 それを笹の包み紙に入れてもらい、ヴィルアとカイトはまた歩き始めた。 「なあヴィルア、俺達がここに来た理由は何なんだ?」 市場の中央を離れ、大分港に近くなった道でカイトはヴィルアにたずねた。 ヴィルアは少しはにかんだが、好奇心旺盛な青年の質問に快く答えた。 「俺に魔法を教えてくれた師匠がここに住んでて、  カイトに魔法を教えてもらうのがまず一つ。  もう一つは、カイトを選んだ『剣』がこの町の近くにあるってことさ」 そう言うと、前を向いて、丁度目の前に見えるテラスを指差した。 「あそこで刺身を食べてこう。昼食、まだだからさ」 「そういえばそうだな…」 「真剣な話をしてる途中で、お腹が鳴ったら恥ずかしいだろ?」 冗談交じりの言葉に、思わずカイトは苦笑った。 道に近いテラスで先ほど貰った包みを開き、ヴィルアが皿を取り出す。 テスラ王が用意してくれた鞄の中にあったのだ、と彼は笑った。 勿論、シエル作干し肉のサラダと焼きとうもろこしもあった。 その異常なまでの準備の良さに、面食らってしまったカイトだった。

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