転生を見守る男と、思い出す男 太陽が頭上に高い頃、つまり 昼間から夥しい流血の跡を見て、思わず、 青年は目を見開いた。 他人の様子などあまり気にしない彼にしては珍しく、 その男に声をかけた。 小川のほとりで座り込んでいた男は、 前髪で隠れていない右目で青年を見上げ、 穏やかな声で答えた。 「見た目ほど深い傷じゃない。…大したことはないんだ」 まだ年若い男は、左肩をざっくりと斬られていたが、 苦痛に顔を歪ませてはおらず、 青年をその冷たい目で見つめる。 金髪と、冬の湖のように深い碧眼は、 男の無表情をより冷たいものに見せた。 「その傷、一体何があった?」 「君に答える必要はない。 …昼間から、こんな物騒な姿を見せてすまないが、 できれば手当てを手伝ってくれないかな」 見た目の割に、男はひどく落ち着いていて、 青年が自分のすぐ傍にある岩に座るのを促した。 傷口をよく見ると、背中までうっすらと線が続いている。 これでは確かに、一人で怪我の手当てをするのは難しい。 「名前は?」 「ただすれ違う他人だ…名前はいらない。 手当が済んだら俺はここを離れるつもりだ。 君もすぐに俺のことを忘れた方がいい」 「なぜ」 それは…。事情を説明しようと開いた口が止まり、 男は首を振って「悪いが話せないんだ」とだけ呟いた。 うつむいた顔の印象は鋭かったが、 見えている右目は丸みを帯びている。 穏やかな目元と鋭い印象のギャップに、 青年はどこかでそれを見たことがあるような気がした。 「…君、今、何かを思い出そうとしただろう」 「心が、読めるのか?」 「今の俺は、ただの鏡。君の心も、よく分かる」 青年が傷口の消毒を終えたことを確認して、 ぐるぐると肩に包帯を巻きながら男は、 目元を緩ませて、ふ、と微笑した。 男が纏っていた鋭い空気が、消えた。 「まだ、駄目だ。思い出してはいけない。 …これで、大体手当は終わりだ。 君、すまなかった。助かったよ」 「まだ、とはなんだ?それにまだ名前を聞いてない」 「俺が森の向こうに消えるまで、思い出しては駄目だ。 君はこちら側に来てはいけない」 「おい、」更に質問を重ねようとする青年から身を離し、 男は青年の頬に一瞬だけ、右手をふれさせる。 「君は分からないだろうけれど、 また君と会えて嬉しかった。 大丈夫だ、もうじき、思い出すから」 「おまえ、は、」 「まだ俺は死ねない。あと少し、待っていて」 強い風が通り抜けて、思わず青年が目をつぶると、 男はさっと身を翻して森の奥へと走って行った。 左の頬が焼けるように熱い。 青年は右手で火照る部分に手を触れ、 川に映ったものに息をのんだ。 竜だ。竜殺しの、紋様だった。 「…エルディ、」 青年の声音が低くなり、目が鋭くなる。 立ち去った男の名を未練がましく青年は呟いた。 ********* 別世界での任務で負傷したエルディと転生した兄。 エルディはすぐに兄だと分かったけれど、 巻き込まないように姿を消しただけ。 ちなみに、続きませんよ。と言っておく。 No.344 - 2009/08/20(Thu) 20:41:11 ********* 巡る時の中で彼は何度でも、 生きるのよ、千年を独りで。 貴方に耐えられるかしら? 目を開け、ゆっくりと深呼吸をした後、 エルディはいつも通り無表情の仮面を被った。 新しい生活を始めてからこれまで この習慣だけは欠かさなかった。 内心では儀式的な意味を持ったこともあったが、 今はただの習慣に落ち着いている。 ソファに横たえていた体を起こすと、 絵の具が幾つか体をすべり落ちて床に転がる。 昨晩遅くまで絵に熱中して取り掛かって、 どうやら一息つくつもりが寝てしまったらしい、と エルディはぼやけた頭で気付いた。 (またやっちゃったか。学習能力がないな…) 辺りに散らばったスケッチを集め、 備え付けのテーブルに置く。 それからソファ周辺に転がっている絵の具や筆などを 愛用している旅行鞄に詰め直して、 部屋の掃除は終わった。 我が家というのに、エルディが普段使う部屋は十にも満たない。 使っていない他の部屋は 専ら移り住んできた頃と全く変わらない状態で保存されている。 あまりテリトリーを広くして 掃除や手入れが面倒になると本末転倒だからだ。 その一方で、頻繁に使っているこの部屋― いわゆるアトリエは、エルディが作品に携わっている時は 目も当てられない状態になることが多かった。 ともあれ、エルディは今の生活に満足していたし、 今後も同じように暮らしていくことにしていた。 *** エルディは一度、「死んだ」ことがある。 孤独に暮らすうちに自然と膨れ上がった絶望に追いやられ、 海の見える崖から飛び降りた。 今となってはなぜそんなことをしたのか分からないが、 当時はかなり深刻な傷を負っていたのに違いなかった。 それで、エルディは「死んだ」。 …正確に言えば、 エルディ自身、死んだつもりだった。 だからこそ、 目を開けた(ような感覚がした)途端に広がった世界で 一人の女を見かけた時、驚愕した。 その女はエルディに自己紹介をし、 アネアという名前を名乗った。 まだはっきりと意識が覚醒していないエルディに対し、 アネアは単刀直入に、人生の選択を迫らた。 生き永らえる代わり、千年間ある役目を果たすか、 それとも、このまま死ぬのか、選べ。 簡潔に言えばそんな内容で、 普通は冗談にしか聞こえない選択肢だと誰もが思うのに、 彼女はどこまでも冷静だった。 しばらく考え込んだ後、エルディは選んだ。 もちろん、千年生きる方を。 もう五百年ほど前のことになる。 その時のことを未だに鮮明に覚えているので、 五百年なんて経っていないように思えるが、 確実に半分は過ぎていた。 *** アトリエを片付け終わると、 エルディはいつも通りに食堂へ向かった。 蓄えてある食料の中から適当に バランスが良くなるように選んで腹を満たすと、 そのままアトリエに戻った。 いつも通りに日常を処理する為に。 ********* 「巡る時の中で俺はいつまでも、」 という題名の連作を書いているのですが、 その番外編ですヨ。 アネアがエルディに対して出した「鏡の鍵」の条件は、 ・あくまで「いつも通りの日常」を過ごすこと。 ・本当に友人や恋人と呼べる人間とだけ関わること。 ・演技でも良いので無表情・無関心でいること。 の三つです。 No.350 - 2009/09/18(Fri) 12:04:20 ********* その敗者は必ず立ち上がる かはっ、と小さく咳き込んで、 ゆっくりと立ち上がった後姿に未練はなかった。 充分だと、エルディはそう思っていた。 もう充分だ。 永い事生きてきて、色々なことがあった。 自分を置いて逝く仲間達を見つめ、時に泣き喚いて、 本当に長い時間が経ったのだから。 だから、もういい。 もう、いいんだ、終わっていいんだ。 この長い、孤独と共に生きる時間は、 もうすぐ終わるのだから。 ふらつく両足に力を入れて、 崩れそうになるのを耐えながら、 口端から血が一筋流れた。 精神よりも、体が限界を訴えている。 エルディは先程までの戦いや何やらで 全身ボロボロになっていた。 それでも、痛みや苦しみや、 恐怖に対する恐れといったマイナス面の感情は出てこない。 むしろ、楽しくて楽しくて笑っているくらいだ。 無謀で無知で無遠慮で無茶苦茶な戦いが、 これほどまで楽しいなんて! エルディは笑っている。 限界点を越した頭がついにおかしくなったのかもしれない。 痛覚さえも麻痺してしまった体で剣を持ちながら、 エルディは云百年前と同じように笑った。 後はただ、後先のことなど考えずに、 ただ戦って生き残るだけ。 大好きだ。 時を越えて生きてきた分だけ、 美しくも醜い、この世界全て。 憎んできた者達、愛していた人、 何もかもが大好きだ。 今なら、自分を取り囲むもの全てを 慈しむことができる。 エルディは改めてそう思いながら 最後の戦いへと走り出した。 だから俺は決して諦めたり妥協したりしない。 死に物狂いでなら、何だって出来る気がするんだ。 ********* やる気がないとか、目が死んでるとかじゃなくて。 エルディは単にいつも死に物狂いなだけ。 厳しい状況や逆境であるほど強いエルディの話。 No.359 - 2009/10/02(Fri) 22:54:33 ********* 呼び声 あまり知られていないが、 自分には人に名前を呼ばれるとき、 体が僅かに反応するきらいがある。 それに気付いたのは二十歳になった頃からなので、 かなり無意識下の行動だった。 気づいてからは 微かな反応すらも分からないように我慢することにした。 何でもない癖なのに、実は何かと役に立つ。 ピクリ、と指が動いた。誰かに呼ばれている。 一先ずぐるりと周囲を見やり、誰かいないかよく注視した。 「エルディー!」 いた。今自分のいる丘から 、肉眼で輪郭が分かる程度の距離だ。 耳には届かなくても、本能には届いている。 だから自分自身は気付かなくても体の反応で分かる。 分かるけれど、 『エルディ!』 この癖が出るたびに、 幻聴が聞こえることだけが、嫌だった。 ********* そうか!これが尻切れトンボってやつか。 No.367 - 2009/10/30(Fri) 17:45:45 *********