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あっと言う刹那、さあっ…と目前の地面や場所が開けて端は暗闇に包まれ、 同時にとてもゆっくりと幸村には全てが視えていた。 胸元から右肩までを焼ける様に激痛がうねり、 自分自身の鮮血がすぱっと潔い音を立てて地面に綺麗な斜線を描く。 六刀流という自我流の戦い方をする男が視界の端、 暗闇に包まれるか否かの場所でじっとこちらを見ているのが分かる。 「我が、生涯……」 随分と昔から長い間自分に仕えてきた佐助の無念そうな顔がちら、と脳裏に浮かんで、 幸村は悔しげに空を仰ぎ見た。 近くに夕暮れが迫っている空はとても美しく、 比較的平和な頃に食べた和菓子の色、それに良く似ている。 六文銭がかかっている首筋までをつ、と何やら暖かい雨、 否、己の涙が流れ、幸村の足はついに均等を崩していった。 (後悔はない、独眼竜との勝負、やっと、ここに…) (しかし、兄上は俺を許してくれまい、きっと政宗殿を恨むだろう) (兄上…この幸村の身勝手を許して下され、俺は幸せだったのだから) 最後の最後に思い浮かんでくる、 もう数年前に上田城を出て行った兄の笑顔に幸村はそっと謝りながら意識を手放した。 ちゅん、ちゅん、と小雀が鳴いていた。 戦場で鍛えられた聴覚によって、遥か遠くで風が流動する音までもが幸村には分かる。 確かに幸村は、現世(うつしよ)の生命を絶たれ、川中島から数里の距離の場所で息絶えたのだ。 ならばその雀の囀りは幻聴か、それとも極楽浄土の物かと言うと、 明朗な視界の感覚や五体がある感覚からして違う、生きている。 満身創痍の身体は布団の上に横たわり、 腰まであった長い髪は枕の上へと扇状に広げられた状態だった。 (雀…か) 幼少の頃から仕えてきた佐助は川中島での乱戦以来、 彼の直属の上司である幸村でさえその行方と生死を知らない。 知らぬとはいえ、光影のように永年を過ごしてきた者同士だからこそ分かる直感で、 佐助は生きている、と幸村は思っている。 もし生き残り、真田忍隊が活動できる状態ならば 徳川軍に所属する兄信之へと行くようにと幸村は伝えていた。 忍独自の情報網や戦術があれば、少しでも兄の助けになると双方が考えた末の決断である。 恐らくそれを実行したのだろう。 (ここは…もしや、) 寝着だけを身に着けた身体を少しずらし、幸村は自身が立たされている状況を確認した。 雀がいるらしい庭に近く、 日当たりの良い八畳ほどの広さの部屋で、襖には見事な墨絵が描かれている。 つまりは何処かの屋敷(それも一武将ほどの)の宛がわれた一室に幸村は今までの数日間寝ていたのだ。 幸村が受けた、包帯の巻かれた鎖骨から脇腹までを走る刀傷は浅薄だったが、 鈍痛がびりびりと体中を苦しませる。 あの稲妻によって痺れているのかと錯覚するほど麻痺感は激しく、 当分は激しい運動などは出来そうにない。 なるだけ腹部が痛まない体制のままで起き上がったものの、 体力が僅かに衰弱していて思うように動けなかった。 「足が、動かないとは…な」 ずき、と再び疼き出した傷口を左手で摩りながらも幸村は辺りの気配を伺っていた。 武士としての感覚は鈍っていない。 誰も来ない様子だと分かり、ようやく彼が聞いたあの雀のいるだろう庭に面した廊下にそっと出た。 廊下は庭と屋敷の外に面していて、 庭と言っても質素な造りのもの、それに庭の外には広い雑木林がある。 久方ぶりの陽光はとても暖かく、風も幸村が感じる限りはまだ弱い。 北風からして今はまだ冬だろうか、と幸村は思った。 長い間太陽に照らされた廊下の板は温まっていて、冷えた両足をじわじわと暖めてくれる。 ふと遠くを見ていると、一匹の烏が幸村のすぐ隣にちょんと降り立ち、 人を警戒しないのか、間抜けな声でかあ、と鳴いた。 まるで佐助が飼いならしていた烏のようで、幸村は思わずその烏の頭をそっと撫でてやった。 黒々とした豆粒ほどの目が大分遠くの木々を映し出しており、 木々の上には誰か人影がいるように見える。 否、「まるで」ではない、とはっとさせられた。この烏、どうやら佐助の遣いこなす烏の一羽らしい。 「Oh、傷はもう大丈夫なのか?」 「!」 背後から降りかかった、音程の低い政宗の問いかけに、 敵だったこともあり、何とも言えず幸村はそっと目を伏せた。 相も変わらず、幸村の隣にいた人馴れしている烏はかあ、と呑気に鳴き、政宗は笑ってそれに答える。 その笑顔でさえ気まずく、すっくと立ち上がりながら幸村は政宗に向き直った。 「某を助けたのでござるか」 「人質にしたとでも思ったか?」 「…いえ、」 寝間着のまま外に出ている幸村の肩に手をやり、政宗はそうか、と至極穏やかに呟く。 遠くで雀がちゅんちゅん鳴きながら青空へと数羽飛び立ち、 傍らの烏もそれに応じて飛び立ってしまった。 二人はしばらく言葉を発さなかったが、上手く喋る事も出来ずに幸村はじっと政宗を見つめていた。 「何となくな、お前がいない毎日が考えられなかっただけだ」 「はあ」 「今後はお前の好きなようにすればいい。俺が勝手に出来る問題でもない」 好きなように、 と言われても今の幸村には行く場所など数えれば両の手に足りてしまう程少なく頼りない。 突然そう言われたことに困惑しながらも、幸村は政宗の真意を汲み取った。 つまり、ただ好意で助けた、悪意はない、ということだ。 (計算しているのだろうか…。それにしてもこの人はなんと穏やか声でおっしゃられることか) (あの烏は佐助の物だったのだ、佐助もきっとこの屋敷の近くにいるのだ) 幸村がまだ幼い頃に武田信玄と会った時と似た、どこか郷愁に酷似した感嘆が口から零れる。 不思議なことに、今目の前に立っている隻眼の男ならば 仕えても差し支えないように幸村には思えていた。 そう広くもない廊下の上に跪き、頭を垂れて、幸村はその燐とした声音ではっきりと言った。 「叶うならば、この幸村をお傍に」 少しばかり驚いていたが、 一国の主である政宗は幸村の肩に手を乗せて、それを待ってた、と穏やかに笑った。 屋敷から僅かに離れた木の上で、 烏を放った佐助もそれを見てそっと胸を撫で下ろし、目を閉じた。 かあ、かあ、と またもや真昼間の青空の中で飛び回りながら、人馴れした烏があの間抜けな声で鳴いている。