ブラウザバックでお戻り下さい。
「あ、こら、プック!」 昔と変わらず、プックはまた 現在の主であるエルディの腕から勝手に飛び出して、村の方へと行ってしまった。 プックにとってはエルディと一緒にいる方がつまらないだろうし、 彼は今や所帯持ちになったのだから、仕方がない。 「プック、戻って来ーい!」 怯えないように呼びかけるエルディに対して ぷい、と背を向けると、プックは村の入り口へと転がっていってしまった。 自由に遊び、気侭に過ごし、 自然と共に生きるその暮らし様の根本的部分は、ここに住む樹の民とそっくりである。 エルディは村を小高い丘から見下ろし、 楽しげなプックの姿に自分の姿を見て、そっと寂しげに微笑んだ。 「ちょっとだけ、羨ましいな」 ファ・ディールを救い、やっと平和な日々を取り戻したエルディも、 かつてはそこで同じ様に暮らしていたのだ。 邪精霊を大樹から追い出した後のエルディは、 戦いの起こる前と同じ様に、村長の家でのんびりと過ごし、畑仕事をした。 それでも、そのエルディの顔に、 子供らしい、あの眩しい笑顔が浮かんだ事はほとんどないと言ってよかった。 大人に成り切れない若い心に突如としてつけられた、 鉄槌を打ち込まれたように深い傷は、そう簡単には癒えない。 樹の村での生活が少しずつ時間をかけて、体中の傷と辛い思い出を薄くはしてくれても、 エルディは笑えなかった。 少なくとも、不幸を味わった事のない幸せな人のようには、 エルディはもう二度と笑うことが出来なかった。 ジャドの首都で息絶えたレキウスの悲しげな顔、 リチアと過ごした最後の思い出、そういった全てが彼を笑わせない。 恐ろしい災厄に与えられた傷を癒す為には、 人気のない、村の外れにある古い木の下で昼寝をするのが比較的に効果があった。 その内あまりの辛さに、エルディは声を上げずに、亡き人々を思って 大粒の涙をぼろぼろ零してしまった。 随分と自分の涙腺が弱まってしまったように思えて、その時毎に 泣いてはいけない、と腕で乱暴に顔を拭った。 そうして世界が復興の兆しを見せ始めた頃、エルディはワッツから大事な用件だ、と、 とある一通の手紙を受け取った。 金の縁取りをされた、明らかに何処か立派な場所から出された手紙は、 それはそれはエルディを驚かせた。 国王であったストラウドの実弟であり、第二王子であるエルディに、 「新たなロリマー国王になって欲しい」と言うのである。 邪精霊がいなくなると同時に、国王のいなくなってしまったロリマーでは、 仮の王として王族に血縁の近い者がなっていた。 だが、王のもう一人の息子であるエルディが生存している と分かり、やはりしきたりに従うべきだ、という民衆の意見が増え始めた。 それに、ロリマーだけでなく世界をも救ってくれた英雄的存在であるエルディならば ロリマーとしては微塵たりとも不満はなかった。 立派な国であっても、それを纏める頂点に立つに相応しい者がいなければならないのである。 長い間生まれた国を離れていた者には大変魅力的な誘いではあったけれど、 エルディは返事を待ってくれるように頼んだ。 自分自身が王になるなんて想像も出来なかったし、エルディは 心から第二の故郷であるイルージャ島を愛していた。 エルディは、亡きリチアと親友であったレキウスの思い出と、 樹の民として扱ってくれた村の人々の優しさは、一生忘れないだろう。 忘れられぬからこそ、 二つに一つ、決めたら取り消せないその選択は時間をかけて考えることが必要だった。 真剣に考えるべき時間を、最後の最後まで エルディは自分を助けてくれた村人への恩返しに使い切った。 「考えた方が良いんじゃないか?」という村人の意見に対して、エルディは、 「考えたとしても、俺には決められないよ」 能天気にそう答え、日照の良い庭に干してあった シーツや衣類を取り込む手を休めなかった。 そうして迎えた決断の日の朝、 エルディはもう一度、生まれ故郷であるマナの大樹の袂の小さな村を見渡した。 子供たちの元気そうな笑顔、大人たちの清々しい顔、 皆、昔と変わらぬ穏やかな時を歩んでいる。 今でも蔦が絡み付いた感覚の消えない右腕を、優しく左手で撫で、 エルディはプック達に背中を向け、丘を降りていった。 「エルディ、本当に断るんだな?」 「うん。頭の悪い俺じゃ、頼りないしさ」 「そうか…。まあいいけどな。お前らしい答えだと俺は思う」 ワッツは手紙を受け取りながら、エルディの出した決断に、豪快に、そして満足げに笑った。 貝がら海岸に乗りつけた、自慢の弐号機の蓋を閉じる寸前、ワッツは 思い出したように蓋を閉じる手を止めた。 「生まれ故郷のロリマーに行きたくなったら、いつでも頼ってくれて構わないぞ。 船でもこの弐号機でも用意してやる」 「ありがとう、ワッツ」 日中の海岸を照りつける太陽の光をぴかり、と 目の眩むほど強く反射し、ワッツを乗せた弐号機は浜から姿を消した。 数日前とはまったく違い、頭上にある快晴の空と同じように晴れた心を感じながら、 エルディは手を振って見送った。 昔、赤ん坊であった彼を浜まで送ってくれた波の音が、 森林の音に鳴れた耳にとても心地良く、エルディはそっと目を閉じる。 数分の間その視界を暗闇に閉ざしていても、太陽の光を乱反射する 紺碧の海が波を立て、大きな轟音を立てた。 いつかの夏に潜った 今日と同じ青い海の、あの強い流れに、エルディはそっと己の背中を押されているような感覚がした。