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髪を伸ばし始めたきっかけが何だったか忘れてしまった。ただ、なんとなく思いつただけだったのかもしれない。
若しくは昔から好きだった幼馴染が切らないで欲しい、と自分に言ったからだったということも有り得る。
ともあれ、気づけばいつのまにか懐かしくも哀しいあの頃よりも、少しばかり髪は伸びていた。
もともと、十年前から「少しでも日常生活の邪魔になったら切る」という位のペースで髪を切ってはいる。
鏡をあまり見ることのしない生活だったので、さほど見た目を気にする必要はこれといってなかったのが本音だ。
散髪に用いる小道具では鋏と櫛、という必要最低限な二つだけを身辺に置いていた。
だからなのか、気づけばいつのまにかあの日よりも全般的に、少しばかり長くなっていた。
十年の間、瞬間的にでも誰か赤の他人を愛することがあれば、今自分はちゃんと髪を整えていただろう。
もっとも、それは起こらなかった。
「これより千歳の時を以って、この役目を全うすることを命ず」
「…お心遣い、ありがたく」
「こちらこそ、ご決断どうもありがとう、エルディ」
目前に立つ女性は恭しく俺に一礼し、「家に戻って存分に最後の引越し支度をするといいわね」と言った。
未だ実感し難いが、どうやらこれで任命の儀式は終わりらしい。気だるそうに彼女は髪を結い直した。
「きっともう二度と帰ることは出来ないわ。でもエルディ、それが貴方の選んだ道よ」
「ああ、分かってる」
その日、『役目』を受けることを承知した後、随分と久しぶりに自宅に帰ってきた。
見慣れた家で俺が真っ先にしたのは、長過ぎる髪をばっさりと切ることだった。
別に自分の髪型に愛着など持っていた訳もないし、これから千年過ごすにはこの髪型じゃあ鬱陶しい。
まともな理由はそれ一つだったが、俺はあの頃と同じように、はさみ一つだけを用意して鏡の前に立ち、息を吸った。
未練や過去を断ち切るように、邪魔な髪を左手でつまみ、ざっくりとはさみを入れる。
とくに伸びていた後頭部の髪はこれでもか、と言わんばかりにそのまま勢いに任せてひたすら切り落とした。
昼頃の森は静かで、はさみの刃と刃が噛み合う度に鳴る金属音だけが辺りに響くのに十分な具合だった。
切った髪は足元の石畳に、黄色の水溜りになるように折り重なっていく。
(あなたの髪、とっても綺麗ね)
(私、あなたの髪の色、大好きなの)
最後の一束を切り落として、ゆっくりと鏡を― 鏡に映った、鏡のように凪いだ目の自分を見つめる。
初恋だったあの子が好きだと言った髪は随分と切り落とされて、鋭い目ばかり目立つ。
まるで、髪と一緒に過去への執着までも断ち切ったみたいに。
「さよなら」と、別れを惜しむような誰かの声を聞いた。
俺の勘違いかもしれない。それでもその声はしっかりと俺の背中を押した。
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髪を切る度耳鳴りが響いた
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