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派手な音を立てて海に落ちた俺は、ぼんやりとした意識の中で、 水面に映る月の青白さばかりが忘れられなかった。 深く、深く、暗く、暗く、俺はどんどん沈んでしまって、 これで死ぬのか、とも一瞬思い、慌てて浮き上がろうとする。 その抵抗も空しく水を掻き、こぽり、音を立てて口からこぼれ出た 最後の呼吸が海面にあがるのを最後に、俺は意識を手放した。 夢を、久しぶりに見ていた気がしたんだ。 とっても暖かくて、優しくて、ふわふわしてて、気持ちの良い夢。 随分懐かしい、日溜りに立ち込めるあの少し埃っぽい匂い… そう、これは古書の匂いだ。でもここはどこ? だって今の俺はただ広くて、他には誰もいない部屋しか居場所はなかった筈だった。 俺はあそこでだけ生きるのを許されていたのに、 母様のくれたあの部屋でしか俺は生きれなかったのに。 目が覚める。 海底の冷たいような、ひんやりした浮遊感は感じられず、 まだ生きていた、と俺は安堵した。 ふかふかした布団に寝かされている感覚がして、俺はゆっくりと目を開け、 離れた位置に俺と同い年位の青年を見つけた。 新緑に似た色の髪に、茶色の目の中の気持ちは緊張していて、 そして少しばかり懐疑心が含まれている。 今まで俺が見てきた兄上のどんな目よりも、暖かい目をしている彼は、 その時になって俺が目覚めたことに気づいたらしい。 まだ寝ぼけ眼でぼんやりとしている俺の額に手をあて、 体温が正常なのを確認してくる。 「君、もう大丈夫? 三日前に近くの海岸で倒れているのを見つけられたんだけど…。 怪我はしてないかい?」 「怪我はないけど…。 それより、ここは…?」 窓の外を見ると、暖かい日差しとまぶしい緑、緑、緑…。 ロリマーとは違って、とても綺麗な緑の世界がある。 同時に俺は、自分がロリマーから大分遠く離れた場所まで 流されたことをようやく悟って、軽い失望を味わった。 あれほど、兄上に注意されていたというのに、結局迷惑をかけてしまったんだ。 きっと怒ってるだろうな、と。 青年― レキウスは自己紹介をしてから、外に通じる窓を開け、俺に話しかけた。 「イルージャだよ」 「そう、じゃあかなり遠くまで来ちゃったみたいだな…。 対岸…他国への船はある?」 「勿論ある。だけど今の時期は暫くこないんだ。ああ、そうだ。君、名前は?」 名前が分からないと呼べないだろう。 それに、船が来るまでここにいなきゃならないからな。 久しぶりに誰かと話をするものだから、俺は 一々相手が何を言っているのか考えながら聞かなければならなかった。 本名を言えば面倒なことに巻き込まれる可能性は十分有り得るし、 兄上に迷惑をかけたくはない。 そう考え抜いて、レキウスに伝えた名前は、 母様だけが呼んでくれた俺のもう一つの名前だった。 「俺は…エルディ」 「よろしく、エルディ」 「ああ…うん、よろしく、レキウス」 差し出された手にちょっと驚いたけれど、 握手したレキウスの手は暖かくて優しい温度がして、俺は好きになった。 その時やっと、もう浮かべることはないだろうと思った笑みが自然と出てきて、 少しだけ驚いた。