ぽたり、ぽたり、床に滴り落ちる水滴が赤く見えて驚き、 もう一度よく目を凝らして見れば窓から漏れる雨粒だと知って息を吐く。 一体何度こうして あの時見てしまった光景のフラッシュバックを抑えようとしたんだろうか。 五回、少なくとも十回以上はしたはずだ。 兄上はあれから俺に相談事だとかくだらない日常話だとか、 何かしらの会話をしてくれなくなって、俺は余計に悲しくなった。 誰もが驚きと恐れに固まった時、唐突にぶすりと兵士を刺し殺した兄上を、 母様は止めようと身を乗り出した。 兄上は何も言わなかった。 何も言わずに、ただ、母様の手から 王の証であるオオカミの紋章をすっと奪い取り、一礼する。 そのまま立ち去ろうとする兄上に、 母様は勢いよく立ち上がって「ストラウド!」ともう一度呼びかけた。 「そのように無慈悲なままでは、死んだお父様になりかわってしまうわ。  …このようなことはもうしないと誓いなさい!」 「……」 「ストラウド、聞いているのですか!」 兄上はやはり何も言わないでじっと母様に向き合い、 長い髪の下からぎろりと青い目を怒った顔の母様へ向けたようだった。 うるさい。 おれのじゃまをするな。 じゃまをするというなら、おまえもころしてしまうぞ。 声は出さなかったけれど、俺の耳にははっきりと 憎憎しげにそう言ったように聞こえていた。 背中をぞっとするような感覚が駆ける。 一体あそこで母様にこんなことを言ったのは誰なんだろう? 本当にあれはあの兄上なのか? ぐるぐる目が回りそうだ。 呆然とした人々を銅像か何か、動かない、生命を失った物みたいに つまらなそうに見つめながら兄上はその場から退出していく。 まさかと思って兄上を追いかけた俺の目に、 どさりと玉座に崩れ落ちていく母様の姿、恐怖の顔、震える手が映った。 「兄上…!」 「アーシュ、あれを見ていただろう」 「……あれは、わざと?」 「ああ、そうだ。  お前もいずれ、ああいうことをする時が来るだろうな」 そっと右胸に、心臓の上に、俺の命の中心の上に手をあてて、 そうなんだろうか、いつかそうするのか、俺は一瞬考えた。 人を排除するということ、つまり殺すということは 兄上みたいに簡単に執行してしまわなければならないんだろうか。 狼狽している俺を落ち着かせようと思ってくれたのか、 兄上は誇らしげにあのオオカミの紋章を取り出して見せてくれた。 ぎらりと輝く銀のしなやかな光が剣の刀身に見えてしかたなくて、 でも紋章はとても「きれい」だと俺は素直に声を出した。 「これからは俺が国を導いていく。  お前は俺の後ろから来い。前へは来るなよ」 「はい…、分かりました、兄上」 「敬語もよせ。俺の弟なら堂々としていろ。  …では、な。後でまた話でもするかもしれん」 一通り俺に言うことを終えると、戸惑いを隠せずに床を見つめる俺から視線を外し、 しっかりとした足取りで兄上は立ち去っていった。 それっきり、兄上とすれ違うことはあっても視線を交わしたりすることはなかった。

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