暗い、ここは暗い、 とっても暗くて、寒い。 まるで自分が独りぼっちにされてしまったみたいに、寒くて暗い。 幼い俺は、扉の向こう側にある、暖かくて眩しい海を思い浮かべて、 それを沢山、沢山、画用紙に描いていった。 世の中の汚い物から隔離されたその部屋の窓からは、 海と空しか見えなかったから、俺は青しか描けなかった。 想像しただけで、それはまるで本物みたいにクレヨンの世界に現れた。 「やあ、小さな小さなアーシュ」 母様の目みたいに真っ青なクレヨンで海を書いたら、 海は俺に向かって語りかけてくれた。 カモメという、真っ白で大空を自由に飛び回る不思議な鳥のこと、 波がきらめく一瞬に出来る綺麗な綺麗な虹のこと。 日が沈む時には水平線は真っ赤に染め上がって、それはそれは綺麗なこと。 いいなあ、行きたいなあ、いつか絶対に見てみたいなあ! 家具はみんな立派で金ぴかで、なのにとっても暗い、 寒い部屋の中に、幼い俺はいた。 周りの大人は俺の左の頬を見ては「アザがなくてよかった」と 不思議なことを言って、俺が目を向けると笑った。 くすくす、くすくす、そんなにわらって、 なにがおかしいんだろう? アザってなに? きらきら、きらきら、満月みたいな蜜色の髪と、 しんみり、ひっそり、深い深い海の色の目を持った男の子。 第二王子として世間からずっと目隠しされてきた、小さな小さなアーシュ。 幼い、幼いアーシュ。 食べる時は、いつも母様が長い大きいテーブルの向こう側で 俺に微笑んで「いただきます」と言ってくれた。 美味しいご馳走を食べ終わると、母様はこっそり、俺に手作りのクッキーをくれる。 歪だったけど、美味しいクッキー。 クッキー美味しいよ、かあさま! 笑顔で言うと、母様はとっても喜んでくれて、 俺もそんな母様を見てとっても嬉しくなった。 ベッドに入って、母様が今夜もおとぎ話を俺に話してくれた。 暖かくて、優しくて、綺麗な母様、俺は母様が大好きだった。 「かあさま、またおはなしをして」 「いいわよ、良い子ね、エルディ、優しい子…」 母様は決まって、俺のことを「エルディ」と呼んでいた。 あなたの本当の名前はエルディというのよ、と母様は笑っている。 きれいな母様、優しい母様。 部屋に来てくれるときは形は歪でも美味しい 手作りのクッキーを持ってきてくれた母さん。 皆が呼ぶ「アーシュ」じゃなくて、「エルディ」として俺を可愛がり、 毎日毎日暖かい愛情を注いでくれた母さん、 母さん…。 「かあさま、おはなし!」 「ええ、ええ、わかっているわ」 舌足らずな声音で俺はおとぎ話を読んでくれるように、 穏やかに微笑む母様をよく急かしたものだった。 ベッドから見える真夜中の海は、月明かりと星々の煌きが 穏やかにダンスをしているようで、とても幻想的だ。 俺の頭をゆっくり優しく撫でながら、 母様はイルージャという不思議な不思議な島の話を、 何度も、何度も、してくれる。 「イルージャの真ん中には、とても大きな木がありました。  世界の始まりから木はそこにあって、いつも世界を見守っていました。  大きな木のふもとには、小さな小さな村があって、  優しくてあったかい人が住んでいました…」 子供の夜は大変短くて、いつしか俺は眠りについてしまい、 母様は俺の髪を撫ぜて整えてくれていた。 ほんの少し冷たい母様の手が、ひんやりしていたその手が、 俺はたまらなく大好きで、母様に撫でられるといつも安心した。 それはいつまでも続かなかったけれど、俺は母様が大好きだった。 幽閉同然として育てられた俺にとっては世界だった、 全てだった、俺と同じ金髪碧眼の母様。 兄上が真っ赤に染まるその日まで、母様は俺にとって全てだった。

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