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青年は再び家の近くを通る小さくも良く澄んでいる小川の流れに耳を傾け、 暫くその口を閉じていた。 己が如何してここに住もうと決意したのか、 もう随分と思い出すことも、態々確認するということもしていなかった。 そうして幾日が、幾年が過ぎて行って、 彼自身もう戻れないほど深くなった追想の森で、独り追悼の言葉を上げ続けている。 ふと、はっとしたように顔を上げると、 何も無い空間へと目を移し、ゆっくりと青年は微笑んだ。 「今、春かな」 「え?」 「ロリマーは、春かな」 これといって一度も、兄の墓参りに行ったことがないんだよ。 行って、泣くのが怖いんだ。 何時も、兄の優しそうな顔を、どうしても思い浮かべることが出来なかった…。 *** 風はそこまで強くは無いものの、引っ切り無しに降り続く雪の塊である吹雪によって 人の視界は殆ど無力だった。 時折、ぴたりと吹雪が止む事があっても、その瞬間は生物であっても無機物であっても、 音を吸い取ってしまって無音である。 たとえ誰かがこの雪の中で助けを求めていたとしても、 恐らくは寒さと心細さで心が先に参ってしまうような具合だった。 さく、さく、と深雪を慎重に、けれどなるだけ早く進むエルディの前方を 浮遊していたフィーが、突然止まった。 恐らくこの極寒の土地に居たジンが語りかけて来たのだろう、 どこかに向かって頷くと、エルディの肩へと降り立った。 「エルディ、とおくからひとのこえがするわ」 「何処に?」 「あっちよ」 少し収まった吹雪のベールに目を細めながら東方へ視界を向けると、 苔生した墓石群がしっかりと白の中で見えた。 そして、その冷たくなった緑黒の中ですすり泣く子供の声も、 静まり返った夜の雪原では、よく聞こえるものである。 極寒の土地で、何よりこうまで夜が更けてから何分経っているのだろう、 兎も角、きっとこのままでは死んでしまう筈だった。 一刻も早くそこで泣いている子供を安全で暖かい食べ物のある砦まで運ばなければ、と エルディは墓場へと走っていった。 雪の降り続ける墓と墓の間、ぽっかりと広く空いた空間に、 誰か大人のコートにくるまれて、子供は泣いていた。 コートにこびりついている血痕は二三日くらい経過していて、 この子供の境遇を話すまでもないように教えている。 純白の雪に僅かながら落ちているのは、 恐らく彼の両親の血、ということなのだろう。 子供を抱き上げ、コートをちゃんと掛け直すと、 エルディは目を伏せて雪に浮かび上がった血痕を凝視した。 鮮やかな赤と、何物も汚し難い純白の雪がどうしても目から離せず、 かつての自分を思い出していた。 エルディがまだ小さくてよく字も読めなかった頃、 彼はただ名前も顔も知らない両親が会いに来てくれるとただ信じ続けていた。 何時だったか現実を突きつけられた時、涙が出るよりも前に、 深い落胆と悲しみで声を出すことが出来なかった。 周りの大人たちはそんな自分を勇気付けるように優しく頭を撫でたり、 焼き菓子やお茶を出してくれたのである。 それでも、幼心に付けられた惜別の悲しみは、 何時までもエルディの頭の片隅でひっそりと住み続けている。 今も、なお。 惜別の悲しみは、孤独への歩みへと身を、変えて。 「エルディ?」 「…なんでもない。さ、この子にスープを食べさせないと」 そうして、二人は色鮮やかな血痕の残る墓場から立ち去った。