もうこれより先、俺からは誰も何も奪えないだろうという予感めいたものがあった。
だからこそ、全てを捨てる覚悟があるかと問われた時、迷うことなく「もちろん」と答えた。
俺が歩む道の先で、俺が失うとすれば、自らの首一つだけだ。

そしてその道はとても暗く整えられていないだろう。
誰もまだ通ったことのない未開の地をこの足で踏むのだから、身体も無事では済まされない。
それでも良いと思える「何か」が俺の後ろに立つ人物にはあった。

随分前に呆気なく渡された遺言用の音声記録装置を見つめなおす。
簡素な黒っぽい物体で、いかにも、葬儀の色をしていた。
自分がこれを使う機会が来るとは、思いもしなかった。
これを使うということは、死の訪れを自ずから認め、それが近いことを改めて認識することを意味している。
少しだけ指が冷たくなる。

何を話そうか、何を遺そうか、少しだけ考えて装置を動かした。
あの人は俺の死後、俺をどう思うだろうか。

「これより先何かを失うこともあるでしょう」

知れず、丁寧な口調になっていた。
自分を知る人が聞いたら思わず首を傾げてしまうような、馬鹿丁寧な語り口だ。

でもこの方がいいだろう。
下手に懐かしい声だときっとあんたは後悔する。

「…悔やんではなりません」

あんたにはまだ道がある。
俺が踏み鳴らした道の他にも、まだまだ道は山ほどあるのだ。
俺はあんたに、もし自分が死ぬことがあれば、その道を生きて欲しいと常々思っていた。

「悔やむのではなく、前に進むだけなのですから」

自分に対していつも言ってきた言葉だった。
悔やむよりも、行動だと。
あんたには似合わない言葉だ。
笑みがこぼれた。

「幸あらんことを…。どうか、お元気で」


それで、遺言は終わりにしようと思っていた。
呆気なさ過ぎると思って、もう一言だけ言った。
それを口にする前に、嗅ぎ慣れた匂いが鼻を掠めた気がして、目が熱くなった。
これは、あんたの匂いだ。

「だから、これで良かったんだと思う」

死の音を、聞いた気がしていた。

最後に思い出すのは、
あんたの、あの擦れたような匂いにしようと決めた。


#3 だから、これで良かったんだと思う
言い訳=暗くなった。

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